有事の際の核持ち込みを容認する── 昨年の政権交代以降、歴代政権が否定してきた 沖縄返還の際の核持ち込みに関する「密約」の存在を巡り、一人の福井県人の名がクローズアップされることとなった。
京都産業大学教授で国際政治学者の若泉敬氏(故人)。1930年旧今立町横住に生まれ、東京大学を卒業後、保安庁保安研修所の教官となり、その後英米へ留学。66年京都産業大学創設とともに教授に招聘され、保守派の論客として脚光を浴びる。佐藤栄作首相(当時)に安全保障問題の意見具申などを行い、67年佐藤首相の公式特使として渡米。以後、佐藤首相の命を受け極秘裏にアメリカとの沖縄返還交渉にあたることになる。
佐藤首相は、日本が真の独立国になるため「核抜き」返還を掲げ、米との交渉は難航。氏は必死に方策を探り、69年秋の日米首脳会談に向けてキッシンジャー米大統領特別補佐官との「秘密合意議事録」(密約)の作成にこぎつける。これが、氏の沖縄返還交渉への関与の“ハイライト”である。
議事録には日本にとっての最重要課題である核の扱いについて、沖縄返還にあたりアメリカが沖縄に貯蔵していた核兵器は撤去するものの、日本を含む極東諸国の緊急事態の際には事前協議による再持ち込みができ、核兵器の貯蔵地として各基地を使用できるように維持するとの文言が盛り込まれた。ニクソン米大統領(当時)と佐藤首相は、この「秘密合意議事録」にサイン。こうして「核抜き・本土並み」の沖縄返還は実現した。
しかし、返還までの氏の使命感と達成感は以後、沖縄県民に対する贖罪の念へと変化していく。当時の日米の力関係から、(密約という)“代償”を支払わなければ沖縄は祖国に還ることはないと信じて取り組んだものの、アメリカの真のねらいは、沖縄占領や核の保有よりもむしろ、対極東戦略上「軍事行動でできるだけ自由な基地使用を認めさせる」ことにあった。日本が「核」にこだわっている間に、沖縄はアメリカにとって、強い日米同盟の下でベトナム・朝鮮半島・台湾を睨む、最大限に自由に使用できる基地として固定化することになっていく。氏は、この「沖縄の基地の固定化」によって県民に負担を強いた“結果責任”に対し、強く心を痛めていたのである。
氏は80年、鯖江市つつじヶ丘町に移って後、沖縄への慰霊の旅を続け、94年に「他策ナカリシヲ信ゼムト欲す」(これしか方法はなかったのだ。意訳)を発刊。密約のすべてを明らかにしたが、歴代政権は密約の存在を否定し続け、氏の存在は日米間の“闇”の中にあった。96年、66歳で死去する。青酸カリによる自殺とされる。
本書は、氏が「他策」の執筆にあたり協力を要請し、草稿の段階からゲラ刷りまでを間近で読んだ後藤乾一氏の手になり、返還交渉の舞台裏が詳細な資料とともに克明に描かれている。また、氏ゆかりの福井県人の名も多く出ていて興味深い。氏および氏の関わった交渉の結果については、基地問題に揺れる沖縄の現状から、これからも賛否さまざまな評価がされることと思うが、氏のような福井県人がいたことは我々県民として記憶にとどめておきたい。
(小澤孝之)
「沖縄核密約」を背負って 若泉敬の生涯(お勧め図書・075)